2009年11月2日月曜日

悪女との境界

 働くことが嫌いな遊び人は、男女共にいるだろう。
 しかし、悪女の境界が分からない世の中では、どんな男がたぶらかされるかも分かったもんじゃない。
 「だまされる方も悪い」と、男の間抜けを手玉に取る悪女に感心する野次馬が出てくるが、結婚すると信じているものがどうして相手を疑えるのか?
 相手を信じるからこその愛ではないか。

 落語にはこういう話は結構、多い。

お見立て
 花魁:おいらんに入れあげた男が金に飽かせて身請けをしようとする。
 花魁は借金があったので男から金を借りた、と思っている。
 男は結婚できるはずだと思って郭にやってくる。
 男は花魁の仕事を許し、その欠点も認めている。まるでわがままな女に好かれていると思い込む。それだけでなく、自分には学があり、人の見る目があると思っている。だからこそ花魁を疑わずに愛している。
 花魁はその男が嫌いで病死したことにしてくれと、郭の下男に言い渡す。
 下男がそれを告げると、男は墓参りをすると言い出すが、寺についても字の読めない下男はどれが遊女の墓かも言い当てられず、面倒になって、「どれでもお見立てください」。

 もちろん、花魁はだますつもりで客・男から金を借りた。返す当てもつもりもない。
 男は惚れているもので、どんなわがままも可愛いと思っている。死んだとしても経の一つも上げてやりたい、という気持ちがあるが、世間知らずと見栄っ張りがその言葉の端々に透けて見える。落語では「千葉のお大尽」との設定だ。

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