2009年11月17日火曜日

Firefox から Google ブラウザに

 以前はマイクロソフトの Internet Explorer だけだったのですが、動作の重さに耐えかねて、Firefox を使い出した。始めはその速さに驚いたが、使い続けるにつれ、動作が重くなる。
 高速で動作するにはメモリを多く使用するらしく、他のサイトへの移動は別ウィンドウにしてみたりしたが、それでも改善しなかった。
 実際、パソコンそのものの知識が乏しいのも、快適なインターネットにならない理由だろうが、まあ、ブラウザも無料なのでいろいろと試してみようかと、今度は Google Chrome をインストールしてみた。

 この Google Chrome 、最初は、さほど早くない、と思っていたが、一度サイトを読み込むと、次からは割ときびきび動き出す。
 リンクでタブが増える仕組みは、整理されているという印象で使いいいし、タブが増えても重さは感じない。
 それに Firefox のブックマークが自動的に Google Chrome にインポートしていたのは良かった。
 また Ctrl + n で最近閉じたタブが参照もできる。タブを削除しても、これで再度、復活できるのだ。他のショートカットキーを覚えれば、まだまだいろいろな使い方ができそうだ。
 ダウンロードはそれほど早くはないが、ファイルの置き場所がブラウザ内にあるのは面白い。またそれを切り取りもできる。

 Google のいいところはニュースなどもそうだが、一画面の情報量が多いところだ。Ctrl + や Ctrl - で拡大縮小か。インターネットの知識はこんなもの。

 ウィンドウズは新作のOSがめまぐるしく代わり、XPではセキュリティーが後、1年とちょっとで切れることから、真剣にリナックスOSを考えていたが、しかし Google も無料のOSを開発とのこと。
 後、1年待って、 Google OS に切り替えるのもいいかもしれない。

 そしてこの記事が Google ブラウザにしてからの Blogger 初の記事である。

2009年11月8日日曜日

真心を侮辱に代える悪い奴

 育ちが良くても、その後の身の上が不幸であれるほど、そのギャップが大きいほど、同情してしまいます。
 大富豪の娘さんだったのに、親は有名人だったのに、優秀な学校を卒業したのに、という育ちもあるでしょうが、身の上における転落もまた様々です。
 そんなことを「運命」などと考えがちですが、どんな境遇になったとしても、たとえ貧しくても、正しく生きていくことはできるはずです。それこそ自身の選択に任されているのです。

藁人形
 人気のある花魁が、一人の老いた願人坊主:願かけ修行の僧をひいきにしていた。その理由が「亡くなった父っつぁん」に似ていたから。
 あるとき身請けの話で、絵草紙屋を買ってそこに住むから、あなたを引き取りたい、と坊主に持ちかけた。
 ところがある日、突然、居抜きの絵草紙屋の後金の催促に困り果てた花魁が愚痴をこぼすと、願人坊主が「ご用立ていたしましょう」と言い出す。
 実は花魁の元の身分を知っている坊主は密かに好意を寄せていて、こちらも他人とは思ってなかった。
 金を持ってきた坊主を見て「ほんとうに父っつぁんのようですねぇ。私も他人とは思いませんよ」と喜び、酒を勧め、一晩泊めた。
 数日後、坊主が訪ね、「絵草紙屋のことどうなった」と聞くと、何のことだか分からない、お金を借りるわけはない、あの金は一晩泊まった勘定だ、と言い張る。
 だまされた、と思ったときは遅かった。若い衆に追い出され、突き飛ばされた拍子に額にまで怪我を負う始末だ。
 坊主は長屋に帰ると雨戸を閉め切って引き込んだ。
 そこに甥御が訪ねてきた。兇状持ちで牢にいたのが御赦、つまり釈放になって来たのだ。
 坊主は祝いにそばでも買ってくるが、その鍋のふたを取るな、といって家を出た。
 見るなと言われれば見たくなるのが人情。ふたを取ると煮えた油の中に藁人形が一つ。
 坊主が帰ってくると「あっ、おめえ、鍋を見たな。それじゃあ、俺の祈りは通じなくなった」と嘆く。
 藁人形なら五寸釘のはずだが、どういうわけなんだ、と聞くと、「やつは糠:ぬか屋の娘だ」。

 花魁と差し向かいで一つ屋根の下で暮らす、という期待はまさに糠喜びであった。
 それにしてもいい女に「亡くなった父親にそっくりで他人とは思えない」とまで芝居をされたんじゃ、詐欺も名人芸である。坊主だって、教師だって、どんな男だってだまされてしまう。
 人は育ちよりも環境でそれ相応の人格が定まるとよく聞くが、そんな説を裏付けるような話だ。
 しかし、どんな境遇になったとしても、正しく生きるのは、自分自身の選択に任されている事だけは代わりがない。「あいつのせい」で、穴一つ。

2009年11月7日土曜日

そんなつもりじゃなかった女

 だますつもりはなかったが、結局は約束が守れなかった。
 必ずだ、絶対だ、と固く誓ったのに、相手にはそれを押し付けて、自分だけはそうはいかなかった。
 結局は、自分だけが良ければいいという思いが、相手の服従を求めているに過ぎないということだったのか。そんな原因とは、ただ問題の解決が付かなかった、とうことだろう。

 問題の解決が付かないと、事態はどんどん悪化してしまいます。それで袋小路に入ってしまうと、どんどん視野が狭くなり、選択肢が少なくなる。最悪は、死ぬか、生きるか、となってしまう。

品川心中
 遊女にも紋日:物日というのがありまして、衣装だ、若い衆への祝儀だと金がかかったそうです。しかし、年が増すに連れ客も少なくなると、まとまった金も作れない。これじゃあ、情けない、ってんで、いっそ死んでしまおう――しかし一人で死ぬよりは、心中の方が、後で噂になっても甲斐がある。相手を探すと、馬鹿で独身の金蔵がいい、となりました。さっそく手紙で身の上についての相談があると呼び出す。
 起請:神仏への夫婦の誓いの証書を貰っている金蔵はすっ飛んできた。訳を聞いて金を作れない金蔵は心中することを承知する。
 次の日、身辺整理で家の物を売って死に衣装を買ってから、世話になった親分に挨拶をする。そして品川に戻ってきた。
 しかし、いざというとカミソリは痛い、首吊りはさまが悪い、と尻込みをする。
 女は金蔵を引っ張って裏庭に出て防波堤に立つ。夜の暗闇に波の音だけがする。そんなときに店では若い衆が気が付いて探し出す。と女は金蔵を先に突き落として、自分も飛び込もうとしたとき、若い衆が止めに入った。番町の旦那が金を工面したと知った女は、「お金ができりゃあ、死にたかないよ」。それで黙っていりゃあ、分からない、と店に引き返した。
 品川の海は遠浅で立てば腰までしかなかったのが幸いし、水を飲んで牡蠣で額を切ったぐらいのことだったが、一人でいるのに騙されたことに気付いた。それで親分のところに泣きつくと、金蔵を死んだことにして女を懲らしめてやろうということになる。

 心中をする理由は、たいがい金なんでしょうか。
 それでも心中を持ちかける方は、相手が承知してくれると思って言うんでしょう。
 承知する方もずいぶん大変なことを納得してしまうものです。まるで相手に服従しているようなものだ。それだから、裏切られても悔しい気持ちは自分一人では晴らせない。それも誰かの手助けが必要だ。

 自分が積極的に死にたかった――生きているつもりじゃなかった。
 しかし死ななければならない原因が解決できた――ならば、死にたくはない。
 心中相手は、ただ混乱した人間に巻き込まれただけだったようです。

 自分さえ良ければいいという女と、意気地のない男の取り合わせでは、無理心中未遂、というところが関の山のようです。

2009年11月5日木曜日

いつの世も女が上手

 人は一人では生きていけません。
 与えられた仕事をしたり、誰かに頼ったりして生きていきます。
 仕事があってもそれが永遠と続くものではなく、ときが経てば自分の評価が下がったり、それとは別に仕事自体が暇になると、首になったりしてしまいます。
 世の中は世知辛い。金がなければ生きていけないし、それを稼ぐのは年を取るほど大変になってくる。だからこそ誰かを頼りにしてしまう。

お直し
 吉原の花魁も、とうがたってくると売れなくなります。それを伎夫、呼び込みが同情していろいろ世話を焼いたのがきっけで忍んで付き合い出す。
 しかし店の主に見つかり小言を食らうが、情けで夫婦になることを認めて貰い、花魁からおばさん、遣手婆のようなものになって二人で働いていた。
 店の脇へ小さな家も借りられるぼになると、その内、亭主が遊びを覚え、酒やバクチに手を出す。そうなると店を休むようになり、終いには家の物は全部質屋に行ってスッカラカン。
 これじゃだめだ、ってんで、また女房を遊女にして商売をしようと考えた。始めはごねた女房も仕方なく承知する。
 夫が若い衆で客を呼び込んで、女房が酒を飲ませての手練手管で口説き落とす。いい頃合いに、「おなおしだよ」の声をかけて、客が承知すれば料金が追加される。それがあまりに上手いこと行き過ぎて、客が帰ると亭主が焼き餅を焼き出す。
 しかしそこも女房が上手くやって仲直りになると、さっきの酔っぱらった客が、「おう、なおしてもらいたいよ」。

 男は誰でも女に手玉に取られているものなんでしょう。女性がいなければ男が男でいられない。そんな意味で男たちは仇同士、なんて言うのはあまりにも生物学的な言いようです。
 同情し、見栄を張って、意地を張り、それでも最後はほだされる。女なしには生きてはいけぬ、「主なしにも生きられぬ」を信じてしまうは男心。

 手玉に取るのはたやすいか、それとも真に幸せか?

2009年11月4日水曜日

女一人に、だまされる男は三人

 契りが固いかは、深い関係になったから、とはかぎりません。
 いくら神仏に誓いを立てたとしても、それを守るのは人間なのです。
 いくら法が優越だと申しましても、誰でも権利は主張するもの。
 契約や誓いを優先するのか、自分を優先するか、それとも妥協でもいいのか?
 人の判断とは、備わった人格が作用するものです。

三枚起請
 吉原で遊んでいる男が遊女から、年季があけたら夫婦になる、という起請:神仏に誓った証書を貰ってその気になっていたが、それがその兄と友人にも書いていたことが発覚。
 友人では、年季前に借金を返したい、という遊女のために大金を苦労して工面したとのこと。
 腹の虫が治まらない友人の一言で、みんなで遊女をねじ込みに行こう、ということになる。
 会って遊女の話を聞くと、弟は色が白くてブクブクのデブ、金を貸した友人はひょろっと背が高いカマスの干し物で「死にゃあいい思っている」と。

 どんな間夫でも自分の欲が優れば物足りなくなってしまう。落ち着いた生活を夢見ようとしても、朝っぱらからカラスの鳴き声がうるさくて寝られない、とは色欲だけが目立った物言いだ。
 金を借りさえすれば、その後は、貸してくれた人が「死にゃあいい」とは、恩も仇で返す気性のようです。女の本音は怖いもの。
 結局、三人以上と結婚の約束をしているとなると、何が女の本音かも分からなくなってしまいます。
 しかし心底、信用しなければ結婚はできないのも真理。

 神仏への誓いが破られても、天罰を感じないのは、本人の愚かさのためでしょう。今も昔も変わりません。

2009年11月3日火曜日

人をだます陰なるもの

 人をだます者は人でありながら、それは容易なものに非ず。陰にあることから、恨みに思いやすく、執念深い。そんな恨み心で相手に取り付き、災いと祟りをもたらす。
 なるほど、狐も人も恨みに心が曇れば代わりがない、ということか。

王子の狐
 狐が人間に化けたところを目撃した男は、逆に狐を化かしてやれと企てる。
 人間を化かすはずの狐が年増のいい女になったものだから、男は小料理屋に誘う。
 女にたらふく飲ませて寝かせた空きに、串鳥と卵焼きを五人前を土産に、「勘定は連れに」で帰っちゃった。
 翌朝、起こされた女は驚いて狐に戻ると、その女中も店中も大騒ぎ。大勢が踏み込んで狐をひっぱたいたが、狐は屁をして逃げていった。

 屁は臭いから、これは「疑わしい、あやしい」という意味で、逃げた犯人は狐だったんじゃないか、という暗示であろう。

 後半は「狐はお稲荷さんのお使い姫だから詫びを入れるしかない」と言われ、男は稲荷にいた子狐にぼた餅を渡す。
 しかし子供が持ってきたぼた餅を母狐が、「馬の糞かもしれない」。

 最後も疑わしいは「臭いがする」という暗示が効いている。

 人を疑う者は謝罪も拒み和解はできず、ただ仕返しをたくらむだけだ。
 だました者は疚しい心を隠して、祟りや災いを避けるために神仏に祈るのみ。

2009年11月2日月曜日

悪女との境界

 働くことが嫌いな遊び人は、男女共にいるだろう。
 しかし、悪女の境界が分からない世の中では、どんな男がたぶらかされるかも分かったもんじゃない。
 「だまされる方も悪い」と、男の間抜けを手玉に取る悪女に感心する野次馬が出てくるが、結婚すると信じているものがどうして相手を疑えるのか?
 相手を信じるからこその愛ではないか。

 落語にはこういう話は結構、多い。

お見立て
 花魁:おいらんに入れあげた男が金に飽かせて身請けをしようとする。
 花魁は借金があったので男から金を借りた、と思っている。
 男は結婚できるはずだと思って郭にやってくる。
 男は花魁の仕事を許し、その欠点も認めている。まるでわがままな女に好かれていると思い込む。それだけでなく、自分には学があり、人の見る目があると思っている。だからこそ花魁を疑わずに愛している。
 花魁はその男が嫌いで病死したことにしてくれと、郭の下男に言い渡す。
 下男がそれを告げると、男は墓参りをすると言い出すが、寺についても字の読めない下男はどれが遊女の墓かも言い当てられず、面倒になって、「どれでもお見立てください」。

 もちろん、花魁はだますつもりで客・男から金を借りた。返す当てもつもりもない。
 男は惚れているもので、どんなわがままも可愛いと思っている。死んだとしても経の一つも上げてやりたい、という気持ちがあるが、世間知らずと見栄っ張りがその言葉の端々に透けて見える。落語では「千葉のお大尽」との設定だ。