契りが固いかは、深い関係になったから、とはかぎりません。
いくら神仏に誓いを立てたとしても、それを守るのは人間なのです。
いくら法が優越だと申しましても、誰でも権利は主張するもの。
契約や誓いを優先するのか、自分を優先するか、それとも妥協でもいいのか?
人の判断とは、備わった人格が作用するものです。
三枚起請
吉原で遊んでいる男が遊女から、年季があけたら夫婦になる、という起請:神仏に誓った証書を貰ってその気になっていたが、それがその兄と友人にも書いていたことが発覚。
友人では、年季前に借金を返したい、という遊女のために大金を苦労して工面したとのこと。
腹の虫が治まらない友人の一言で、みんなで遊女をねじ込みに行こう、ということになる。
会って遊女の話を聞くと、弟は色が白くてブクブクのデブ、金を貸した友人はひょろっと背が高いカマスの干し物で「死にゃあいい思っている」と。
どんな間夫でも自分の欲が優れば物足りなくなってしまう。落ち着いた生活を夢見ようとしても、朝っぱらからカラスの鳴き声がうるさくて寝られない、とは色欲だけが目立った物言いだ。
金を借りさえすれば、その後は、貸してくれた人が「死にゃあいい」とは、恩も仇で返す気性のようです。女の本音は怖いもの。
結局、三人以上と結婚の約束をしているとなると、何が女の本音かも分からなくなってしまいます。
しかし心底、信用しなければ結婚はできないのも真理。
神仏への誓いが破られても、天罰を感じないのは、本人の愚かさのためでしょう。今も昔も変わりません。
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