2009年11月4日水曜日

女一人に、だまされる男は三人

 契りが固いかは、深い関係になったから、とはかぎりません。
 いくら神仏に誓いを立てたとしても、それを守るのは人間なのです。
 いくら法が優越だと申しましても、誰でも権利は主張するもの。
 契約や誓いを優先するのか、自分を優先するか、それとも妥協でもいいのか?
 人の判断とは、備わった人格が作用するものです。

三枚起請
 吉原で遊んでいる男が遊女から、年季があけたら夫婦になる、という起請:神仏に誓った証書を貰ってその気になっていたが、それがその兄と友人にも書いていたことが発覚。
 友人では、年季前に借金を返したい、という遊女のために大金を苦労して工面したとのこと。
 腹の虫が治まらない友人の一言で、みんなで遊女をねじ込みに行こう、ということになる。
 会って遊女の話を聞くと、弟は色が白くてブクブクのデブ、金を貸した友人はひょろっと背が高いカマスの干し物で「死にゃあいい思っている」と。

 どんな間夫でも自分の欲が優れば物足りなくなってしまう。落ち着いた生活を夢見ようとしても、朝っぱらからカラスの鳴き声がうるさくて寝られない、とは色欲だけが目立った物言いだ。
 金を借りさえすれば、その後は、貸してくれた人が「死にゃあいい」とは、恩も仇で返す気性のようです。女の本音は怖いもの。
 結局、三人以上と結婚の約束をしているとなると、何が女の本音かも分からなくなってしまいます。
 しかし心底、信用しなければ結婚はできないのも真理。

 神仏への誓いが破られても、天罰を感じないのは、本人の愚かさのためでしょう。今も昔も変わりません。

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